【平 貞盛】 | 平安時代の武将。藤原秀郷と協力して平将門を討つ。従五位上に叙せられ鎮守府将軍、陸奥守、丹波守を歴任。 子息らの家門の史的展開は注目される。後世平氏政権を築く伊勢平氏の祖となる平維衡は貞盛四男であり、鎌倉時代に執権職を世襲した北条氏は次男維将の子孫。 |
【藤原秀郷】 | 平安時代の武将。平将門追討の功により従四位下に昇り下野守、鎮守府将軍等に叙せられ勢力を拡大。 源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。大ムカデ退治の伝説でも有名、俵藤太の通称がある。 |
【結城朝光】 | 平安時代末期から鎌倉時代前半にかけて活躍した武将で鎌倉幕府の有力御家人。父は下野国小山の豪族小山政光、母は源頼朝の乳母としても知られる寒河尼。 源頼朝を烏帽子親として元服し、名のりの朝光は頼朝から一字賜ったものである。1183年(寿永2)の戦功により下総結城郡を与えられ結城氏を称した。以降数々の功績により名声を上げ鎌倉幕府の評定衆にも列せられた。 |
この碑の題字部分を書いたのが江戸幕末から明治期に活躍した榎本武揚でした。 |
![]() ![]() かつては旧幕臣、それも反政府軍の指揮官の地位にあった。この碑が建立された1899年時点で武揚は 逓信、農商務省、文部、外務の各大臣と枢密院顧問官を歴任していた。 |
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![]() 雅号九鶴。 「きゅうかく」と読み中国の故事にちなんでいる。三國三公之碑に刻まれている銘は現当主の三世代前の宮田九鶴にあたる。 |
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今から120年前に彫刻された文字。全て「突きノミ」と呼ばれる道具を用いて一文字一文字手作業で彫った。機械作業に慣れきった現在よりも、文字に対する造詣と思い入れが深かったかもしれない。 |
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石工宮田家で代々世襲される雅号九鶴。 「きゅうかく」と読み中国の故事にちなんでいる。三國三公之碑に刻まれている銘は現当主の三世代前の宮田九鶴にあたる。 |