不毛の大地を緑に変えた男
台湾の南部の古都・台南市から車で北東へ40分。嘉南平原を駆け抜けると、かつて世界最大規模を誇った
烏山頭ダムに到着します。満々と水をたたえた湖面には遊覧船が滑るように航行、人造湖とは思えないその麗しさから「珊瑚
潭(湖の意)」とも称されています。この景色を見下す小高い丘に日本式のお墓があります。烏山頭ダムを含む大規模な水利事業を設計し、更に工事の陣頭指揮を執った八田與一とその妻
外代樹がここに眠ります。
八田與一は明治19年石川県に生まれ、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、当時日本の植民地であった台湾に渡ります。台湾総督府の技師として各地のインフラ整備に手腕を発揮。そのほとんどの人生を台湾に捧げました。彼の出世事業となる嘉南平原への灌漑工事=嘉南
大圳に着手したのは大正9年のことでした。
嘉南平原は広大な平地を有しながらも、洪水・干ばつ・塩害の影響を受ける非生産的な痩せた土地でした。與一はこの嘉南平原に安定した水供給が可能となれば、台湾の穀倉地帯へ変貌する筈と
閃きます。統治側の役人として職務にあたる一方で、心中には「貧しい農民を救ってあげたい」という義心にも満ちていた與一でした。
しかしながら工事費用は莫大で現在の貨幣価値に直すと実に五千億円。工事規模も壮大で、烏山頭ダムを心臓部として嘉南平原へ張り巡らされる給排水路は総延長1万6千キロ。予算と作業内容の両面で困難を極める一大プロジェクトとなりました。ようやく十年間の歳月を要し昭和5年嘉南大圳は完成の日を迎えます。

與一の設計・工事指導によって完成した烏山頭ダム。コンクリートをほとんど使わない工法が採られた。「珊瑚潭」の異名にふさわしく優美な姿を見せ、台湾人の憩いの場ともなっている。
これまで苦しい生活を強いられてきた農民達は、新しい水路から水が流れてきたとき「神の水が来た」と感動と感謝で涙したと伝えられています。
かくして水稲作は工事前の6倍に、砂糖キビは2倍に収穫髙が伸長。農作物の輸出も可能となり地域農民60万人の生活水準は着実に向上していきました。
嘉南平原を穀倉地帯にしようとする與一の構想は正に実を結び、嘉南大圳竣工後100年近くを経た現在でも土地と人々の心を潤し続けています。
與一・外代樹の最後 建墓と今に続く追悼式
嘉南大完成後、台北に転居し引き続き台湾発展に尽力していた與一でしたが、昭和17年5月、下命を受けフィリピン派遣要員として船に乗り込みます。しかしその途次、五島列島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃に遭い、思い半ばで帰らぬ人となってしまいました。享年56才。遺体は一カ月後奇跡的に山口県萩市沖で発見されています。
與一亡き後の昭和20年、外代樹は十数年ぶりの烏山頭にて疎開生活を送っていました。やがて8月の終戦を迎えて程なく、召集されていた息子が無事帰還。ところがその翌朝、外代樹は喪服に白足袋の出で立ちで烏山頭ダムの送水口へ身を投げ夫の後を追ってしまいます。享年45才。
二度の悲報は嘉南の人々を慟哭させました。昭和21年地元有志によって石塔が建立され、夫妻はその心血を注いだ地に手厚く葬られるに至ります。
殊にこの当時、国民党政権による日本色一掃の嵐が吹き荒れていた中で、日本人の墓が建立された事実は大変意義深いことです。しかも台湾様式ではなく、御影石できちんと和式に手加工、文字彫刻が施されている。嘉南の人々が如何に篤い理念を以て、與一夫妻を供養・顕彰したかが伝わって来ます。
以降5月8日の與一の命日には毎年追悼式が行われ、台湾政府要人や水利関係者・地元の農民が一堂に会し、與一夫妻を偲んでいます。
悲しい出来事を彷彿とさせる石塔ですが、近代史の証であると同時に、日本・台湾友好の象徴として今後も我々にメッセージを届けてくれることでしょう。

嘉南大圳竣工の翌年(昭和6年)に建立された與一の銅像。本人の希望により、威圧感が無い座像で日常の作業着姿となった。昭和19年金属供出により烏山頭から姿を消すが、紆余曲折を経て昭和56年に再びこの地に設置される逸話がある。戦前に作成され、台湾に現存する唯一の日本人の銅像である。
「嘉南大圳の父」と称えられる八田與一はこんな人
- 日本よりも台湾での知名度が抜群
- その功績が台湾の教科書にも記載されています。
- 技術と共に人格にも優れる
- 肩書や人種、民族による差別をせず、また利他精神に溢れていました。
- 31才で結婚
- 外代樹は16才で妻となりました。二男六女をもうけ烏山頭ダム工事現場近くにて十数年間家族で生活。
- 烏山頭の町造り
- 工事関係者用宿舎200戸をはじめ、学校・病院を建設。娯楽施設や弓道場・テニスコートまで整備しました。
- イベントを多数企画
- 芝居一座を呼び寄せたり、映画鑑賞会やお祭りを定期的に催す。烏山頭で暮らす職員・工事人・その家族の幸せを常に願う熱き男でした。

與一の功績を遺品や写真、ビデオで辿れる八田技師記念室。
植民地時代の全てを賛美できないが、史実を客観的に見つめようとする台湾人の真摯な姿勢に敬意を抱く。この記念室を下ったところに、外代樹が身を投げた旧放水口がある。