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・石は仙台石(粘板岩)で「篆額」部の文字は、筆線を生かした浮かし彫り。 (細く丸みを持ったその線の彫りは現在の我々が見ても見事であり、アートと言える。) ・碑本文はのみの線彫り・高さ1丈7尺(5m15cm) ・巾 5尺3寸(1m60cm) ・厚さ9寸5分(29cm) |
篆額部 |
能 莊 嚴 院 尼 公 之 碑 |
能荘厳院恵信禅尼碑 従三位九條道實公篆額
禅尼法諱は恵信、諡(おくり名)は能荘厳院始め名は玉日。 關白九條兼實公の第七女なり。 建仁三年、眞宗開祖鸞師の配となる。 承元元年、宗祖遷謫(せんたく・罪を問われ遠地に移すこと)の時、畱(とどま)りて京都に在り。 後、仮に、兵部太輔三善爲則の女と稱し、侍女白川局等と東下す。 追随して共に道化を助く。 此の時に當たり、結城朝光、深く宗祖に帰し、師資の禮を執る。 是を以て、宗祖帰洛の後、猶、結城に住し、落飾して名を改め、専ら遺教の扶護に任ず。 蓋し、関東の法苗は、禅尼の培養を被ること居多と云う。 建長六年九月二十九日没す。享年六十九歳。宗祖の遷化に先んずること八年也。 遺訓懇切にして、人をして感泣せしむ。 後世、景慕益(ますます)加わる所以なり。 今茲、遠近の門侶、協同して碑を建て、以て報恩に擬す。 銘を余に請う。余、乃ち銘を為して曰く。 法本一理 機に利鈍あり 攝化無量 方便千萬 夙(つと)に韋提(いだい)と為り怨恨刃に臨む 今玉女と成り 綢謬相勸 眞俗扶翼宗基由て建つ 何ぞ引導に周し 共に悲願に乗ぜん 明治四十一年歳は戊申に次る九月 龍谷勸学 島地黙雷 譔竝書 宮田九刀 |
意を解してみると、 『「恵信禅尼」は「玉日姫」で「関白九條兼實」の七女で、親鸞聖人の「妻」となった。 親鸞が越後に流された後を追い「三善為則」の娘といって「白川の局」等と関東に来た。 親鸞と共に念仏の道を説いた。この頃「結城朝光」は親鸞を師とし弟子となる。 親鸞が京都に帰ってからも、結城に住まい、その教えを布教する。建長6年(1254年)69歳で亡くなった。』ことなどが分かります。 が、何故、『結城に「玉日姫=惠信尼」の「御廟所」が?』『一体、何時の時代、誰がつくったのか?』 『再建前の墓標はどんなだったのか?』の疑問がわき、あたかもミステリー小説を読み進めているかのような気にさえなります。 しかし、「恵信尼」が結城に残ったという史実や、それを裏付けるような資料等はなく、「伝承」「伝説」の域から抜け出ることができません。 「たった一つの石碑」「そこに刻まれた碑」ですが「当時の人々の願いや篤い思い、成し遂げるまでの時間と労力財力」等々、 並みの力では果たしえない多くの人々の篤い志と力の結晶がそそり立つ石碑となり、後世にその意を伝えていく「永遠の命」 を刻まれた石碑として、現在に生きる私たちに語りかけています。 |
参考文献等 |
「玉日君御小史。大正14年4月1日印刷。稲田良憲」
「浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)ホームページ」 「真宗大谷派(東本願寺)越後三条教区ネットから、 「『親鸞聖人と恵信尼さま』 筑波大学名誉教授 今井雅晴氏 講演」 |