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源翁和尚は喜暦元年(1326年)、越前国萩村に生まれ、本名を心昭、号を空外といい、7才で倶舎論(仏教の基礎学として重んじられる経文で30巻)をそらんじたといわれる秀才。
16才で仏門に入り、仏典1000巻を渉猟したといわれる。北関東を中心に行脚、教化してその足跡は広い地域にわたっている。烏山の泉渓寺、会津の爾現寺などを開山し応安4年(1371年)、
結城8代城主直光公が和尚を招いて、それまで律宗であった結城の安穏寺を禅宗(曹洞宗)の寺に改宗して、安穏寺中興開山の人となった。
和尚を有名にしたのは至徳2年(1385年)8月、下野那須野ヶ原の殺生石を化度し、永い間の害をのぞいたことである。この功により翌3年、後小松天皇より能昭禅師の号と結城山の勅額を賜った。
応永3年正月7日、71才にて大往生をとげた。
さて殺生石とは、火山地方又は温泉地方の墳気孔付近の岩石に、つけられた俗称で墳気孔から噴出する亜硫酸ガス、硫化水素、その他の有毒ガスのため鳥類や、昆虫類などが死ぬためこのように呼ばれる。
なかでも那須の殺生石はその伝説によって有名である。即ち、鳥羽法皇の寵姫「玉藻の前」は、当時有名な陰陽師の安部泰成によって正体を見破られる。実は天竺から中国をへて日本に渡った金毛九尾の狐であった。
この狐は、中国と日本の名だたる人物のもとにだけ出没する妖狐である。ついに化けの皮がはがされ、苦しみながら空高く舞上がり、那須野に逃れてゆくが、そこで広常、義澄という2人の弓の使い手に射殺されてしまう。
ところがその霊が、石と化して近寄る鳥獣や人を殺してしまい、死骸で小さな山が出来るほどであったという。この風景をよんだ「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」の句はよく知られている。朝廷では源翁和尚をつかわし、長い祈祷の末、手にした金槌でカッと一撃、ついに九尾の狐もその妖力を失ったという。
この伝説は、能や戯曲、講談などに脚色されて世間に知れわたった。ついでながら、私共石工や、大工などが使う鉄製の大きなつちを俗に「ゲンノウ」と呼んでいる、この「源翁伝説」に由来しているらしい。
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源翁和尚の墓は結城市役所の北300mの字玉岡に在る。大正時代の郷土史には、「四望快濶、北日光の連山を望み、東筑波山の翠黛を擁す」とあるが、今はここも例外なく都市化され、まわりを家屋に囲まれてしまった。大きな欅が墓石のそばにあったが、それも、いま騒がれている日照権の問題とかで、切り倒されてしまい殺風景になってしまった。
墓は見上げるほどの大きいもので安山岩であり、禅宗でよくつかう無縫塔(卵塔)である。竿石の太さ約2尺(60cm)、長さ約4尺(120cm)、総高9尺余(270cm)もある立派なものです。
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源翁禅師碑は安穏寺の境内に在り、明治22年、同寺の三十三世智倦和尚が、開山禅師五百回法要を営んだ際に建立したものです。
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石工は当社の先祖宮田利平です。
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