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光岡多治見(号・敬齋) |
下総国・結城藩(水野家1万8千石)の藩士。幕末から明治期に活躍。
(文政12年1830年 4月生〜大正3年11月1914年 没) 「碑文」を読むと 結城藩校「秉彛館」で学んだ後、水戸市加倉井の「日新塾」に就学、塾長となる。 更に、「榎本塾」で「韜略(兵法・兵略)」を究る。帰藩後、藩校「秉彛館」教授・侍講となる。 後、町奉行、郡奉行兼任となる。元治甲子の春(1864年5月)旧・水戸藩士(脱藩浪士)田丸稲右衛門・ 藤田小四郎(藤田東湖の4男)を主将として浪士・農民などが「筑波山」に結集し引き起こした、「天狗党の乱」 (最大時で1,400人と云われる)の際、『「天狗党に加兵・軍資金の提供がなければ結城市街を焼く。」との恫喝に対し、 町・郡奉行として「大義名分」を以て説得、市街の灰燼に喫するを免れる。』と在ります。 更に、戊辰戦争(慶応4年1月《鳥羽伏見の戦い1868年》9月からは明治に改元)の際には、(「結城戊辰戦争」とも言われる)、 国元「政治総裁・小川鈴之」「家老・小場兵馬」らと共に「用人」の立場で結城藩「恭順派」として動き「結城藩」存続を果たします。 「廃藩置県」の際には「結城藩」は「結城縣」となり、「11代水野勝寛が知藩事」となります。 その時「光岡多治見」は「権大参事」に就いています。「多治見」は帰藩翌年に 「私塾・知新館」を開き、藩外や士分以外の者の入学も認めたといい、遠近から「五百余人」もの人々が学んだと云います。 (碑文より) 明治6年には「結城小学校」嘱託教師、明治13年には結城町学務委員に、更には「郷社社司(現・健田須賀神社)(明治26年)」に任じられています。 そして、門人(塾生)、所縁の人々が中心となりこの「功績碑」を建立したのでした。 碑陰には、結城町他、下都賀郡、河内郡、真壁郡等、160人を超す方々の名が刻まれています。 |
下総国・結城 | |
下総国・結城は、初代「結城朝光」以来「結城氏」が治めていました。(寿永2年1183年 〜元弘3年1333年 ・鎌倉幕府滅亡)鎌倉幕府の有力御家人として関東八屋形(結城・佐竹・小山・宇都宮・千葉・里見・那須・小田)の雄と云われていました。 足利氏が京都に室町幕府を開いたのちには、鎌倉公方方の一員として活躍しています。 中でも、永享11年(1439年)鎌倉公方足利持氏は、室町幕府将軍・足利義教、関東管領上杉憲実と対立(京都鎌倉御仲違と云われる)し、「永享の乱」が勃発し公方持氏は自害します。 この時、持氏の遺児、安王・春王・永寿王は、家臣に助けられ、鎌倉を脱出します。一旦は、日光に隠れていた「安王・春王」の二人は、結城氏11代氏朝を頼り「結城城」にこもります。 こうして、永享12年(1440年)「結城」を舞台に歴史的にも有名な「結城合戦」が起こります。堅固な「結城城」の籠城戦は一年にも及びます。 しかし嘉吉元年(1441年)4月16日、終に「氏朝・持朝」親子は自害し、女装して逃亡を図ろうとした「安王・春王」の兄弟も捕えられ、岐阜(美濃垂井宿)で殺されてしまいます。 こうして、名門「結城氏」も途絶えてしまうやに思われましたが、足利持氏の遺児「永寿王」が逃げ延び、宝徳元年(1449年)鎌倉公方となると、これもまた、結城城落城の際逃げ落ちた結城氏朝の四男重朝が「結城氏」を再興し13代となります。 |
「結城合戦絵詞」 《女装した「安王・春王」が逃げようとするも幕府軍に捕えられてしまう。場面》 (国立国会図書館デジタルコレクション) |
「結城合戦」540年記念 「タイムカプセル」埋設 昭和56年11月3日 2041年4月16日 (10回目の辛酉年) 開堀《予定》 |
「結城合戦絵詞」 《女装した「安王・春王」が逃げようとするも幕府軍に捕えられてしまう。場面》 (国立国会図書館デジタルコレクション) |
「結城合戦」540年記念「タイムカプセル」埋設 昭和56年11月3日 2041年4月16日(10回目の辛酉年)開堀《予定》 |
徳川家康の二男秀康は豊臣秀吉の養子となっていましたが、「秀吉」の「小田原北条攻め」の後、17代結城晴朝の養子となり結城18代を継ぎ、結城10万石を領します。
関ヶ原の戦い(1600年)の後、「結城秀康」は「67万石」の「大大名」となり「越前福井」へと移ります。(結城御引越と云われる) この時、17代「結城晴朝」は先祖代々の財宝をどこかに埋めたといわれ、「結城埋蔵金」として伝えられています。(注1) 結城地方は「養蚕業」が盛んで、「蚕種」の販売収入、「繭」から紡ぎ出した糸を用いた織物「結城紬」で有名でした。 幕府は、その技術の散流出を防ぎ、そこから得られる収入を確保することが狙いでもあったようで、「結城城」は廃城となり、結城本郷は「幕府直轄領」となり、幕府代官頭「伊奈備前守忠次」の支配(注2)となります。 |
この山川水野氏の11代が、幕府老中「水野忠邦」(注4)で、初代忠元から忠邦までの墓地(注5)は、山川新宿の「旧・万松寺」(現在は廃寺となっており、水野家累代の墓地のみが残っている)にあります。
福井に移った18代結城秀康でしたが、その子「忠直」は「松平」姓に復します。17代「晴朝」は「秀康」の5男「直基」を養子に貰い受け「結城」の姓を与えて家の存続を図りますが、「結城直基」も「松平」姓に復し、ここに「結城姓」は絶えてしまいます。 |
爾来100年。 元禄13年(1700年)、水野勝長は、能登西谷藩1万石から「下総・結城」に転封となった後、加増があり1万8千石となり「結城城築城」(元禄16年1703年)を命ぜられます。 |
結城城址に残る総敏神社 |
爾来100年。 元禄13年(1700年)、水野勝長は、能登西谷藩1万石から「下総・結城」に転封となった後、加増があり1万8千石となり「結城城築城」(元禄16年1703年)を命ぜられます。 |
結城城址に残る総敏神社 |
水野家宗家は、徳川家康の生母(於大の方)の実家で、水野勝成〈鬼日向と云われた〉が三河刈谷(3万石)の領主となった後、備後福山藩(10万石)に移っていました。
「水野勝成」は、亡くなった後「総敏社」として「福山」に祀られます。分祠社が「結城城」西の丸に祀られています。 5代「水野勝岑」(1歳)が家督相続し「将軍拝謁」のために江戸に向かっていましたが、旅の途中で病気になり夭逝し、嫡子がいなくなり断絶となってしまっていました。 (元禄11年)このため、「水野宗家」の断絶を惜しみ、初代勝成の曾孫にあたる「水野勝長」を「勝岑」の養子として、「水野」の名跡を継がせ、能登西谷1万石を所領させていたのでした。 この時、福山10万石から、1万石への大減封により家臣2100人余りが「暇を出された」ということです。(一大リストラが行われたのでした。) そして元禄13年、水野勝長は「下総・結城」への転封となり、後、三千石の加増、元禄16年には更に5千石の加増とともに「結城城築城」を命ぜられ「譜代・城持ち大名・帝鑑の間詰め」として復活したのでした。 「水野勝長」は、結城築城にあたり家老「水野織部」に領国内の下見を命じます。「水野織部」は、江戸表出立前後から帰還までの道中の風景や様子を「和歌・漢詩・俳諧」を交え紀行日誌風にまとめ、 藩主「水野勝長」に提出するのでした。これが「結城使校」として残されています。 |
水野氏築城当時の「結城城御殿」と家臣団屋敷割(古図) |
城代家老「吉田」家に残る「結城城」図(下が北) 黄色枠内がお城御殿 享保20年3月作成の大工棟梁(武笠彦作)が描いた結城城御殿間取図 姓が入っている部分が家臣屋敷 棟梁「彦作」は城建築のために結城に招かれた人物 享保20年は1735年。「結城城」の建築許可が1703年ですから約30年後に描かれたものと考えられます |
「結城城」を巡る「佐幕派」対「恭順派」の戦(結城戊辰戦争) |
慶応4年1月(1868年)、《鳥羽伏見の戦い》より開始された「戊辰戦争」は「新政府方」と「旧徳川幕府方」との戦いが、西から東へと進んできます。「新政府」は、各「藩主」に対し「恭順」を示し「京」へ上るよう命令を発します。
結城藩では、幕府方に付いた藩主「水野勝知」に対し「恭順」を表明した「国元」の政治総裁「小川鈴之」、家老「小場兵馬」、家老代「稲葉三鶴」、と共に「用人役取締」に就いていた光岡多治見は、「藩主勝知」の説得にあたります。
しかし、この説得工作は失敗し、「結城城」を巡って、「佐幕派の藩主勝知はじめ江戸詰の藩士と彰義隊士」対「国元藩士達」の戦となってしまいます。この戦により家老・小場兵馬の長男平八郎は、小山方面からの結城市街入口の西町口で、
「佐幕派の結城城攻撃」に備え、防御柵を設けていましたが、佐幕派の人質となっていた父「兵馬」を盾にした佐幕派により父の目の前で戦死します。 そして「結城城」は、藩主「勝知」はじめ佐幕派により占拠されてしまいます。 (3月26日) しかし、翌4月5日には、舘林藩、須坂藩兵により組織された「祖式金八郎」率いる「官軍」により奪還され、藩主勝知は、実家である「二本松藩」邸に逃げ入ります。 しかし、この騒動により「家老・小場兵馬」は責任をとって「割腹自刃」、「結城城」は焼失してしまったのでした。 この後、(明治2年12月)「結城藩」は藩主「水野勝知」は隠居し、11代藩主として8代「勝進」の子「勝寛(禊之助)」を立てます。この藩内の「藩主対国元重臣」対立騒動の割にはその処分としては「勝知の隠居」と「1千石の領地召し上げ」「江戸家老・水野甚四郎」の「切腹」と比較的軽い処分で済んだのでした。 |
「撰文」の森 保定(号・鴎村)とは… |
天保2年〜明治40年(1831〜1907年) 栃木県下都賀郡藤岡生(現・栃木県栃木市藤岡町)。 藤岡宿の名主を務めていたが、領主の専横により免職となり、獄につながれた。明治に入って何度か出仕を勧められたが固辞し、葛生村(現栃木県佐野市葛生)に学塾を開き3年。 ある日、塾生を集めて『私は聖人孔子の教えを書いた「経書」を講義している。これらの教えは全て「正修斉治」にある。ところが、家がありながらそこに住まず、田がありながらそれを耕かさず、 他郷に流れ暮らしているというのは学問を実際に行っておらず、聖人の趣旨に背いている。これでどうして教育をすることができよう、只今より辞めさせて頂く。』と言って家に帰り、農耕に努め、その傍ら、合わせて百名余りの生徒を教えたという。 当ホームページ【石を証に】の「江川耕地整理河身改修記念碑」の「撰文」をした「小久保喜七」も塾生の一人である。 本市はじめ、小山・栃木・大平・岩船等北関東域内の記念碑の撰文者としてその名が見られる。本市・観音町にある「赤荻馨谷(けいこく)翁」の碑も「森 保定」の撰文である。 |
書家の「吉田晩稼(よしだばんこう)」とは |
本市にある「慈教上人の碑」(【石に証を】・慈教上人の碑ページ参照)、「靖国神社」の社標や水戸偕楽園にある「原市之進」の「菁莪遺徳の碑」も書している。 楷書・大字を得意とし、明治年間「國光社」発行の教科書の楷書活字の版下になり、多くの「楷書活字」の手本となっている。 |
注記
(注1) | 「結城埋蔵金伝説」については、当ホームページ【「石を証に」の内の「旧城址に架かる「みかつきはし」】を参照下さい。 |
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(注2) | 「伊奈備前守」による「結城城廃城」についても当社HPの同上ページ中に記載があります。 |
(注3) | 「山川水野氏」初代・水野忠元は、水野忠守の三男。忠守は、徳川家康の母(於大の方)とは兄妹。 |
(注4) | 「水野忠邦」は、唐津23万3千石から浜松15万3千石に願って減俸し、「長崎警護」役から逃れ後の昇格を謀ったと云われている。 後、老中職となり「天保の改革」を図るも、余りの厳しさに成果は見られなかった。この時の登用人材に「遠山景元」がいる。 「遠山景元」は、テレビ時代劇に登場し「この桜吹雪の彫り物が・・・」の名台詞でおなじみの「江戸南町奉行・遠山金四郎」です。 |
(注5) | 「万松寺」の「水野家墓地」は、初代、2代は山川が所領であったが、後に転封となるも、許可を得て、3代以降も山川の墓地を用い、 「忠邦」まで11代にわたっている。 |
(注6) | 江川武井(結城市武井)の旧・泰平寺には、当時、武井村の村長だった武井甚平が葬った結城戊辰戦争の際亡くなった官軍兵士の墓として残っています。 「武井甚平」は、当ホームページ「江川耕地整理河身改修記念碑」の碑文を書いた「江川俊夫」の祖父にあたります。 |
(注7) | 早見晋我については【石を証に】の内の「結城と与謝蕪村」に関連記事があります。 |
激動の幕末、戊辰戦争時の結城水野家10代藩主「勝知」の墓所 (結城市立町「孝顕寺」内) |
参考文献等
○ 「結城の歴史」平成24年第3刷 結城の歴史編纂委員会編集 発行 結城市
○ 「結城使行」 結城市史編纂準備室
○ 「臥牛城の虜」 中村彰彦 著 文春文庫「二つの山河」
○ 「臥牛城(がぎゅうじょう)の虜」 中村彰彦 著 文春文庫「二つの山河」
○ 「結城合戦絵詞」(国立歴史民俗博物館蔵、国会図書館デジタルコレクション)