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【長塚節】 | |
明治12年(1879年)4月3日、茨城県岡田郡国生(現・常総市石下国生)の豪農(父は県会議員)に生まれた長塚節は、3歳の時には「百人一首」を諳んじていたといいます。 明治26年、茨城中学校(後の茨城県立水戸中学校・現・茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学しますが、4年次に神経衰弱のため退学し、自宅に戻ります。 鬼怒川・筑波山を望み、櫟・楢の林が点在する自然の中で、読書と中学在学時から親しんでいた短歌を詠みながら療養生活を送ります。 | |
19歳の時、家で購読していた新聞「日本」に連載された「正岡子規」の「歌よみに与ふる書」を読み
その「写生説」に強く共感し、「子規に会いたい」気持ちが強まります。 |
【正岡子規の歌の門下に】 | |
明治33年3月、22歳の節は、意を決し、直接東京根岸の子規(32歳)の許を訪れます。 翌々日、再度の訪問の際、子規は、線香一本に火をつけ、 「燃え尽きるまでにここの実景を歌に詠め」 と命じます。 節は、 「歌人の 竹の里人おとなへば やまひの床に 絵をかきてあり」 他十首を作ります。 神経質な節の性格からでたその歌は、鋭い感受性を持ち、精細で清いものがあり、一連の歌は、二日後には新聞「日本」に掲載されたのでした。 こうして節は入門、翌4月の「根岸庵」歌会に参加、「岡麓、伊藤左千夫」たちを知ったのでした。 節は、「万葉」の短歌の研究と作歌に励み、「写生主義」を追求していきます。子規は、節に格別に目をかけていましたが、明治35年9月19日、34歳で没します。 子規亡き後も「写生主義」を継承し、さらに究めようとし「節こそ子規の詠風の正統な継承者だ。」と評価されています。 明治36年6月、根岸庵のメンバー九人は短歌同人誌【馬酔木(あしび)】を発刊し、自分達の拠り所を得るのでした。「馬酔木」は後に「アララギ」となります。 |
歌碑を建てた黒田吉則氏は 「短い期間ではあったが、長塚節と黒田てる子との確かな交流を残したい」との思いを話されました。また、「てる子が 『「いったん婚約をなしたるからには、たとえ挙式を為さずとも私はあくまでも節の妻である。」といい、兄・昌恵を困らせた』」と、親戚縁者でなければ知らないことをも話されました。 | |
「黒田てる子」は「節」の没後5年ほど経た後、北海道に嫁いだということです。 |
注1 多くの人との交流
節が九大病院に治療のため福岡滞在中(明治45年4月)、両親宛に「郵便は、福岡市外東公園裁縫女学校前 武井準方」に送付するよう依頼しているが、
その宛先の「武井 準」は結城郡江川村武井(現結城市武井)の生まれの人である。この時は、まだ【眼科医】として九大病院勤務医であったものと思われる。
大正3年、三度九州を訪れた時には「宮崎市に眼科医を開業している 武井 準」あてに手紙を書いたと在り、宮崎で「眼科」を開業していた。
また、「準」の弟「俊夫」が「横瀬夜雨」に「てる子」の情報を寄せ、そのことを節に手紙で伝えているが、「武井俊夫」は、当時は「小学校」の教員をしていた。
後、第9代・江川南尋常小学校長(現結城市立江川南小学校)を務める。(大正8年〜昭和4年) 大正14年には、「江川河身改修・耕地整理記念碑の書」を書いている。
当社ホームページ、「石を証に」「耕地整理河身改修記念碑」参照。
後、江川村第20代・21代村長になり、昭和29年、結城町・江川村・絹川村・山川村・上山川村の1町4村の合併で「結城市」になるまで務めた。
横瀬夜雨と武井準・俊夫の兄弟は、従弟同士。
参考文献等
○ 常総市ホームページ(長塚節について)
○ インターネット・ウィキペデイア「長塚節」
○ 文春文庫「白き瓶」小説 長塚節 藤沢周平
○ 結城郡勢要覧(昭和27年発行)