中国では、かの文化大革命期に多くの青年らの「下放」運動が起こっています。彼らは下放先の村落において、墓所を倒壊して畑地に変える運動の先頭に立ちました。文化大革命のスローガンは「破四旧」〜旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を打破せよ〜です。
先祖の霊を祀るための地域に根ざした親族集団ごとの廟・墓地・祭りのために使う道具類までも破壊しました。こうした施設は一種の恥であるということで壊されたのです。文化大革命の後も農業生産性の向上・躍進を至上命令として耕地を広げたり灌漑施設を造るときに墓所は破壊され一定の不毛地帯を墓地に指定してそれらに移動させられたりしました。 上海市の話になりますが、文化大革命前には上海にも外国人墓地が5〜6ヶ所あったそうです。1845年から上海に埋葬された人は2万人以上で墓地の規模は日本の横浜の外国人墓地より大きかったといわれています。しかしこれらも文革のときに破壊され今では跡形も残っていません。 「もし文革がなければこれらの墓地も日本の横浜にある外国人墓地のように上海の名所の一つになっていたでしょうに」 と横浜の墓地を訪れた上海市の殯葬事業訪日考察団の人が残念がっていたという話です。 中国では開放後、殯葬改革に力をいれており、各都市では、葬儀・火葬・納骨がまとめてできる殯儀館の建設を推進させています。現在中国全土には約1200ヶ所の殯儀館と4000基の火葬炉があるといいます。全国の火葬率は1990年現在で約30%に達しています。 火葬率が100%に近い今の日本に比べると少ない感じを受けるかもしれませんが、かつて儒教思想の支配下にあった中国では亡親を火葬にすることは親不孝の最たるものとして忌避されていました。そのような中国の儒教的伝統的な先祖祭祀などを思うとき、いかに中国が火葬の普及に力を入れてきたかが窺われます。 火葬の宣伝活動はもちろん補助金の援助までしています。で、都市部ではほとんど火葬になっています。しかし地方ではまだ土葬が支配的です。農村部への普及はなかなか難しい事業であるようです。 いま中国では開放政策で経済至上主義が広がっています。ケ小平氏の提唱で「先に豊かになれる者から豊かに」の方針を推進し、 その政策の浸透によって内陸の農村部と沿岸部との所得格差が拡大してゆき、内陸の多くの農村は豊かさから取り残されてしまいました。ちなみに昨年の調査では6500万人いるといわ れる「絶対貧困者」の年収は都市部の平均月収に相当する530元(約7200円)以下と定義されています。疲弊した農民の中から豊かさを求めて出稼ぎ労働者として村を離れる者が後を絶たないとききます。 このような混沌とした不安な状況下に置かれた農村部では迷信と民間信仰が復活蔓延し勢いを強めているとのことです。この現象は心を委ねられる何か確かなものを求め見出そうとする庶民心情の一つのあらわれとみることができるでしょう。 また都市部においても改革開放政策と共に思想統制の緩和、一部の人たちの富裕化と共に古い習慣に回帰しようとする動きが出てきています。同じく上海の例ですが、市民の中に火葬2,3年後に蘇州などの風光明媚の地に墓所を買い求める人たちがいます。 墓地の使用権は買い求めることができるのです。清明節の頃となると墓参の車で街は大混乱になります。墓参は政府の指導の下、簡素化の方向で行われてきました。墓前で死者が死後の世界で金に困らないようにと紙で作った「紙銭」を焼いたり、線香をあげて哀悼を表するのが一般的ですが、 最近では経済の発展に伴い死者の殉葬品も派手になってきて紙で作ったカラーテレビや冷蔵庫、果ては自動車までも用意されており、それらを燃やすので清明節の日などには消防車まで出動して火災に注意しているとのことです。 墓所もいろいろと形が変化して高級化してきています。蘇州は日本の観光客で賑わっている町です。大晦日には寒山寺の鐘をつきに1000人以上の人たちが日本から来るそうです。「東洋のベニス」とも呼ばれ、市内を200もの水路が走る水の都で、上海から車で2時間弱のところにあります。 お墓は蘇州の呉県というところに多くあり、現在公墓だけでも8つあるそうです。その外にも太湖のほとりの景勝地にいくつかの華僑の墓があります。市ではハゲ山を利用してお墓を作り植樹して緑化を進めようとしています。国道を走りながら車窓から気を付けて眺めていると小高い山の傾斜地にお墓が沢山あるのが見られます。 紙幅がなくてあまり書けませんが、こんなことでも少しは旅の面白味が増えれば楽しいことです。なお蘇州は昔から中国きっての美人の産地としても有名なところだそうです。 |