いしぶみ、石碑、墓碑、記念碑、碑銘、碑を建てる、などなど碑という文字はよく目にします。碑は石に文字を刻み永く後生まで伝えられることを願って地上に建てるものです。その起源は古代中国に始まり我国にも、もたらされた文化です。起源、形式等についてはいろいろ説があり、中国の学者も我国の学者の間にも定まった説がありませんが、一応穏当と思われている説は次のようです。 唐の封演の「封氏見聞記」に碑の起源は二種類ありとしています。一つは天子の祖先を祀る宗廟に神に捧げる犠牲の獣をつなぐ石柱を建て、またそれで日影を計り時を知り、陰陽を引いたという説。もう一つは葬時、墓穴に棺槨をつるしておろす際、棺の安定をはかり工事を容易にする大木の支柱で(後に石にも用いたようです)用が済めば墓穴をうづめ、その柱を墓前に建てて柱にその人の生前の勲功を書し、後またこれを隧道(玄室(棺を納める室)に至る地下道)の入り口に建てたという話。(これを神道碑と呼んでいます。)古代の墓碑の額に往々孔を穿ってあるのは、棺を下ろす時に紼を通した名残であるといわれています。 さて、碑と呼ばれる一種の形式を備えた刻石が現れるのは漢代に入ってからですが、とても沢山建てられました。しかし、前漢時代(前二○二〜後八)のものは伝わっているものが非常に少なく、まだこの時代には碑を建てたり、石に刻したりすることがあまり流行していなかったようです。後漢(二五〜二二○)に入ると、立碑刻石が盛んに行われ、その二百年余年間は全盛時代で、何千という数の碑が建てられました。二千年もたった今でも見ることができる碑が、百数十碑も残っています。 ところで日本ですが、古い碑で有名なのは日本三古碑といわれる白鳳〜奈良時代の栃木県の那須国造碑、群馬県の多胡碑、宮城県の多賀城碑があります。今日古代の碑は金石学の立場から研究されるばかりでなく、書道・文学・考古学などのほか、岩石学など自然科学の視点からもとりあげられ、各方面の学問と関わりあった研究対象として貴重な歴史資料となっています。 |
参考文献:恩師、文学博士藤原楚水著『図解書道史』、『書道金石学』(三省堂) |
右写真は今から七十五年前(昭和四年四月三十日)建設時の記念撮影です。中央は光福寺五十六世、大正大学教授増田慈良住職、向左に小山市薬王寺膝附戒全住職、外世話人の方々です。 弘法大師一○九五回御遠忌聖日為檀徒一同が建立しました。正面碑文、裏面寄付者芳名、篆額、真言宗豊山派前管長權田雷斧大僧正、撰文増田慈良教授、書、肥前誕生院正盛住職。碑石は仙台石(粘板岩)、高さ四メートル五○、巾一メートル七○、厚さ三○センチメートル。台石は筑波石(花岡岩)長さ三メートル三○、巾二メートル一○、高さ一メートル余の大自然石の一ヶ物です。これだけの巨石を当時どのようにして運び建設したのか、いろいろと想像をめぐらせてしまします。当時の方々の熱意と意気込みが伝わってきます。 施工は当社で宮田九鶴鐫です。
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