動物の霊に感謝する日本人
今から120年ほど前、新興近代国家であった日本は大国ロシアと戦火を交えるに至りました。戦闘は1年半続き、我が国の戦死・戦病死者数は9万人と言われています。20世紀最初の総力戦となった日露戦争。日本は明治維新後37年にして国家の存亡を賭けた戦いに直面しました。一般国民も徴用令に従って物資を供出せざるを得ません。殊に馬匹は「戦場の活兵器」として重きを置かれ、国内馬20万頭が徴発を受けて海を渡っています。果たして全国から集められたこれらの馬たちが、戦後どれ程故郷へ戻れたのかは分かりません。
おそらくは過酷な状況下、数多の命が失われたものと思われます。
今回掲載の軍馬斃歿供養塔は人間の都合で異国の土となった軍馬を
悼んで建立されました。碑裏面には250人余りの賛同者の名前が刻まれています。
また日露戦争終結の7ヵ月後には早くも竣工・慰霊祭が行われている点からも想いの深さが見て取れます。当時の生活は誰しも決して裕福ではなかったはず。それでも軍馬の霊を慰め、戦地での活躍に感謝の意を表した人々が沢山いました。
これらの事実こそ、日本人的な精霊信仰の表象と言えます。古来より日本人は「
森羅万象全てのものに生命・霊が宿る」とするアニミズム=精霊信仰と共に生きてきました。
動物はもちろん草木や人形、裁縫の針など、精霊信仰の対象となるものは数えきれません。いわば日本人は、あらゆる所に存在する精霊によって敬意と感謝の念、時には畏れを抱く感性が磨かれてきたのでした。まさに日本人の誠実さの源流や相手を思いやる優しさ、謙虚さの礎は精霊信仰に求めることができると思います。
折れた針や錆びた針を柔らかい豆腐へ刺し感謝を伝る針供養。
物にさえも命・霊が宿るとする精霊信仰の儀礼のひとつ。

動物を与えてくれた神に感謝する欧米人
世界には様々な宗教・信仰が存在しますが、それらが目指そうとする高みは皆共通しています。すなわち個人の精神的救済と社会秩序の安定を至高の目的としています。ただし、それぞれの教えに即した儀礼や行動・考え方が多種多様であることは周知の通りです。
精霊信仰を基層として、日本人は動物供養を至極当然のように行っていますが、グローバルな視点からするとそれは不可解な行為と見なされています。比較の一例として世界人口比1/3の信者を占めるキリスト教の動物観について触れてみましょう。聖典である
『旧約聖書』 第一章 創世記 から神・人・動物の根源的関係性が示された節を抜粋します。
- 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
(25節)
- 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
(26節)
- 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(27節)
- 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
(28節)
これらから導かれた基本的な教えは、ポイントとして次の3点となります。
- @全ての生き物は神が創造した。
- A神は神の似姿として人間を造り、これを特別に愛した。
- B人間は神の委託を受けて動物を管理する。
キリスト教信者が多い欧米社会ではその教義に基づき、「必要に応じて動物を人間の為に利用することは神から許されている」との認識を共有しています。併せて霊は人間の専有物であり、神から役割に応じて創造された動物に霊は存在しないとする考えが一般的です。よって動物を慰霊する発想には至りません。仮に動物の慰霊碑を建立しようとするならば、それは創造主である絶対神への
冒涜となってしまいます。(但し動物を愛護することは聖書の教えるところとなります)
キリスト教のように高度に体系化された教義を持つ宗教は解釈・論拠が明瞭です。たとえば肉食の習慣に関しても右記のロジックにより正当性が担保されています。つまり動物の命を閉ざして食材とする行為に対しては、言うなれば「神へ対する謝恩システム」を立てることで倫理的問題が生じないのです。
動物の霊の存在を肌で感じている我々からすると、欧米人の動物観はともすると冷たい印象に映ってしまうかもしれません。でも欧米人は彼らが信じるところに依り、適切且つ誠実に動物と向き合っているのです。またその信心を以て古来より合理的に社会秩序を維持してきたことも事実です。「信仰ごとに正義がある」と言われる
所以です。
日本社会にとって「高機能」な精霊信仰
我々の先祖は、およそ感覚的・情緒的な動物観を抱きつつ、精霊信仰を脈々と繋いできました。そこでは個々人に内在する敬意・感謝・畏怖の念を発心として供養が実践され、次第に篤い信心へと昇華する展開が認められます。
つまりは教えが下達される流れではなく、人間の内なる部分・精神性の発露こそが精霊信仰の本質であると言えます。ゆえに精霊信仰は、教祖や経典や教団が存在せず、曖昧で、且つ整然とした体系化に至らないままに継承される性質を有します(学術上「自然宗教」に分類、対極は「創唱宗教」)。むしろこの日本人が好む曖昧さが信仰の底支えをしている様相もあり、更に「おばあちゃんからの言い伝え」のような温かさと柔らかさも含まれています。
一神教信者からすると何とも掴み所が無い精霊信仰ですが、これが我が国においては道徳心の醸成に大きく貢献している点が大切なところです。「この世の全てのものには命と霊がある」とする観念は日本人の規律と自制心向上に寄与し、ひいては社会へ安定と秩序をもたらす役割を果たしています。いわば精霊信仰には日本流の社会安定化機能が備わっているようなものです。呼吸をするが如く、自然と受け継がれてきたこの高尚な精神文化を日本人の一人として誇りに感じる次第です。