- 蚕 の 生 態
- その貢献と儚さ
ひと昔前まで
蚕は人々と共に暮らしていた身近な昆虫でした。養蚕が生活に根差した産業として全国各地で営まれてきたことは周知の通りです。また小学校の理科の観察で蚕と触れあった方もいることでしょう。小さく地味な存在ですが、改めて向き合ってみると儚さや可愛らしさが入り交じる不思議な生き物と思えてきます。
カイコガの幼虫である蚕は桑の葉を食べて育ち、糸を分泌して
繭を作りその中で
蛹に姿を変えます。繭から繰り取った糸を人間が繊維素材として利用したものが生糸や絹となります。
あまり知られていませんが、蚕は自然界には生息しておらず野生回帰能力がありません。つまり長きに亘り家畜としてのみ命を繋いできた種であり、人間の世話が無くては生きてゆけず、自らエサを探す能力も持ち合わせていないのです。仮に野外の桑の葉に蚕を載せたとしても脚の力が弱い為にすぐに落下、そのまま餓死してしまいます。また白く目立つ体は鳥などに捕食されやすく、自然界での生存には完全に適合しない生き物となりました。
蛹を経て羽化する段になると、口から繭を柔らかくする酵素を出したのち破り出てきます。成虫は全身が白い毛に覆われ
翅がありますが、体が大きすぎ且つ飛翔筋も退化しているので飛ぶ能力は全くありません。人の手に載せてもパタパタと翅を動かすのみです。更には餌を摂る器官も無いので何も食べず水も飲まず、交尾をして死期を待つこととなります。
もっとも養蚕プロセス上では成虫の蛾に変態させることは無く、蛹が繭の中で眠っている状態のまま煮沸する工程に至るので、蚕の命はそこで尽きることとなります。一つの繭から取れる糸の長さは1000m〜1500m。その特殊能力を有した蚕の命は人間社会へ大いなる潤いをもたらせてくれました。
- 近代国家の基礎を支えた「お蚕さま」
- 小さな命に寄り添う日本人
日本人と蚕との共生の歴史はとても古く、卑弥呼の時代(西暦240年頃)には既に養蚕が行われていました。以降脈々と技術は継承・発達し、江戸時代末期には生糸が主要な輸出品となるまでに成長します。
更に明治期には隆盛期を迎え、外貨を獲得する産業として格別に重視されることになりました。富国強兵・殖産興業のスローガンの下、基幹産業である養蚕は日本の国力増強の礎を築く役割を果たします。時に「生糸が軍艦を造った」と例えられますが、歴史の一視点からすると、日露戦争の勝利は養蚕の発展無しには語ることができません。
今回掲載の「蚕霊供養之碑」が建立されたのは昭和27年。戦中・敗戦直後の停滞期を脱し、養蚕復興への足場を固めようとしていた頃でした。既に市場は内需に移行し最盛期の勢いはなくなったものの、蚕は農家の大切なパートナーであり続けました。養蚕業に携わる人々は皆「お蚕さま」と丁寧に呼んだものです。そこには現金収入を得てくれる有り難さと共に、命を頂くことへの深い謝恩の念が込められています。昭和27年といえば戦争の傷がまだまだ癒えない頃。それでも蚕の霊を慰めようと供養塔建立に尽力した人々が沢山いました。限られた命となってしまう家畜へ思いを寄せて、感謝の証を石へ託そうとする日本的な美風に心が動かされます。
そもそも日本人は太古より人間以外の動物や植物、さらには非生命体の「モノ」までも供養の対象としてきました。これは「森羅万象全てのものに生命・霊が宿っている」とするアニミズム(=精霊信仰)に源流を求めることが出来ます。アニミズムは日本人の根源的な世界観・死生観を形成しており、それゆえ全国各地に多種多様な生類供養の証・慰霊碑が
数多存在するに至りました。そこには共通して敬意と感謝、そして
畏れの感情が交錯しています。
蚕との共生を一事例として概観しただけでも、先人たちの自然へ対する誠実な振る舞いが浮き彫りとなります。僅か数センチの虫へも慰霊を怠らない優しく繊細な感性は、日本人としての
矜持としたいところです。
これからの社会においても人々が少しずつの優しさを持ち寄って皆で紡いでいけば、穏やかで生きやすい未来が織りなされてゆく筈と願う次第です。